Gallery of Works作品ギャラリー

正美の創作舞踊– Kuni’s Creative Dance –

創作舞踊は最も厳格な意味での芸術舞踊である。

何故ならば、それは音楽をもとにしそれを視覚化するところの所謂「振付」ではないからである。
何故ならば、それは文学をもとにしそれに振付けたものでもないからである。
ここに世にいうところの新作舞踊と創作舞踊の違いがある。

創作舞踊は従来の意味の「踊り」や「舞踊」や「ダンス」ではない。勿論バレエとは全く異なる。
創作舞踊は運動による空間形成の芸術である。

CASA(電脳空間舞踊)– DANCE CREATION ON CYBER SPACE –

CASA(電脳空間舞踊)

舞踊史上はじめて電脳空間と取り組んだ前衛舞踊作品の発表公演

No.0 ゼロ空間

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No.1 スペース・インターフェイス

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No.2 パースペクティブ

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No.3 プラス空間

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No.4 分散空間

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No.5 ディスタンス

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No.6 等価空間

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No.7 ライブ・スペース

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No.8 マイナス空間

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No.9 進展空間

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ご挨拶に代えて(邦正美)

 私の舞踊が“黄色い時間” “円周なき円” を経て “CASA” にまで来たのは、私がドイツに留学し、ルドルフ フォン ラバンとメリー ヴィグマンに長年師事したからとか、私の芸術活動の本拠を米国に移しているからとかいう事情だけではありません。私は当時の東京市から技芸第六等の鑑札を貰い、浅草の民衆演芸から舞踊に入りました。短命ではあったが金子洋文先生の新社会劇団に参加したのがもとで、更に寄席の舞台を回って芸をみがくことになりました。
 本郷の大学構内の第二十九番教室で舞踊会を開き、美濃部達吉教授から「神聖な憲法を講ずるところで“踊り”などもっての他である。」と大問題になったのは、私が東京帝国大学の学生でもあったからです。
 歌舞伎座で松居松翁先生に演出を学んでいた頃は、喜熨斗政泰師(先代市川猿之助)の舞踊の門弟でありました。旧友宝生英雄君に師になって貰い、厳しく鍛えられたのもその前後です。
 泰 豊吉氏に任されて日劇ダンシングチームの大衆娯楽舞踊を6ケ年かけてつくり上げたことは、私の芸術にもたっぷり栄養を与えてくれました。
 私が1942年からムジーク・コンクリートに入り込み、更に始めは通信目的であったが、1964年からのコンピューター研究に入ったものもすべて“CASA”まで来るプロセスに含まれると思います。

うらん節

邦正美の『そうらん節』

この作品の発想は;
 戦前のはるか以前、北海道余市の海が鰊漁で賑わっていた頃、その壮大な題材の感激から始まった。舞踊創作に取り掛かって数年、その完成に至らない内にドイツへの舞踊留学のために中断。敗戦後に帰国。
 余市の海はあまりにも変わってしまっていた。鰊がまったくこなくなったのである。鰊は余市の海を見捨てたのである。見捨てられた人々の生活は? 余市は寂しかった。題材は在りし日の壮大な余市の海であるが、作品のモティーフは全く別なものになった。
 それから、実際に群舞の創作に取り掛かりました。中途で何回も太平洋を横断しながら、踊りを練り直しました。又新しい霊感を求めて余市の海辺を歩きました。作品がどうやらまとまったので、1999年10月の発表公演を決定しました。
 ところが、ところがです。この春予期しなかった異変事が起こりました。鰊が、あの鰊の群が、余市一帯の海に突然押し寄せて来たのです。北海道の人々は喜びました。私は慌てました。群舞作品『そうらん節』は振り出しから作り直さなければならなくなりました。二転三転作品のモティーフは、又全く別な新しいものになるからです。


五部作 群舞  演:邦正美舞踊団

第一部 ー 海
第二部 ー 波
第三部 ー 人
第四部 ー 流
第五部 ー 空

第一部 海

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